新潟県の、それも雪深い地方で生まれ育った身として、この本を読むことは義務のような心持ちだった。しかし、18歳の少女は挫折した。あまりに難解で、とっつきづらいと感じ、それきり手に取ることもなかった。それから10年以上の時を経て、縁あってこの本の舞台そのものである越後湯沢で、大人になった私は真冬を含む8ヶ月間を過ごすことになる。時は2024年の1月4日。元旦に起きた大地震の傷は癒えるはずもなく、余震に怯えて外出することもままならなかった。今読まずしていつ読むのだと、そう心を決めて頁を開く。驚いたことに、今度はものの3時間で読み終えてしまった。そして、読んでいる間じゅう、私は自分が出せる限りの低い声で唸り続けた。あまりにも、あまりにも巧みな川端の文章に、鳩尾を軽く殴られ続けている感覚を覚えたからだ。
冒頭の有名な一文およびあらすじについては、情報の海に溢れかえっているから割愛する。個人的な視点よりまず特筆したいのは、会話文の生々しさである。
”「なにを勘定してるんだ」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。
「五月の二十三日ね」
「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ」
「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ」
「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね」
「日記を見れば、すぐ分るわ」
「日記?日記をつけてるの?」
「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かしいわ」
「いつから」”
—しかし、時を置いて読んでも、未だに唸り声が出る。意識して読めば、同じ疑問文でも文末に疑問符を打つときと打たないときとがあることに気がつく。この完璧な均衡が、まるで脈拍まで聞こえてきそうな温度を作るのだ。また、作品内での会話文というのは、得てして少々文学的な話し方に寄りがちだ(そしてそれが、とっつきづらさを生むものだ)。しかし、この2人の会話はまるで、今まさしく立ち聞きしてしまったのだと錯覚するほどに鮮やかなのだ。こんなことがあっていいのかと思う、本当に。この引用部分だけではない。作品全編をとおして川端は、人間の心、感情の襞ひとつひとつに積もった細胞をグロテスクなまでに掬い上げ、それを圧倒的な情景描写でひとつひとつ相殺していく。まったく、末恐ろしくて乾いた笑いが出る。
多くの人の胸を打つ作品だから、読者各々に思い入れがあるだろう。とはいえ、私がひとしおの感動を本作に抱いた理由に想定されることのひとつに、私もまた、雪深い地域で育った事実が挙げられる。新潟県上越市は、私が8歳から18歳、そして27歳から30歳までの計13年間を過ごした土地だ。板倉区大字久々野の柄山集落では、昭和2年(1927年)2月13日に積雪が8メートル18センチに達し、人里での積雪の世界記録を樹立した。さすがにこれは大袈裟な例だが、しかし我々にとり、雪はもはや、生活の一部—時として大半だ。
冬、早朝には雪を退けるために各地域へブルドーザーが出動する。それでも足りないから、人々の朝は雪かきに始まり、夜は雪かきに終わる。屋根に積もった雪の重みで部屋の扉が開かなくなって青ざめる。車の運転中、正面からの吹雪に視界がホワイトアウトし、死を覚悟する。凍らせたい食材があれば、冷凍庫ではなく家の外に置いておく。冷蔵庫も使わない。自宅の廊下で充分代用できるからだ。冗談だと思ったら、身近な雪国出身の人間に事実確認をしてみるといい。真顔で同意し、ほかの数多のエピソードを語ってくれるはずだ。
腹が立つのは、そこまで苦しめられても、未だ途方もなく雪が美しいと感じるからだろう。或る雪の日の夜、人っこひとりいない道を歩くと、世界から音が消えたことに気がつく。厳密には、雪の降る音だけが、私の身体を包んでいた。ふと自分が纏っている黒いコートの袖を見ると、絵に描いたような雪の結晶を細部まで見ることができる。芯まで冷えて感覚を失いつつある手足に、しかしなにか、たとえ命をこのまま終えたとしても、それでいいのかもしれないという納得感を覚えた。どう足掻いても大いなる自然には敵わないと、矮小な人間が悟った瞬間だ。
さて、川端になぞらえて自然との対立構造を生むならば、愚かな人間としてこれは吐露しておかねばならない。主な登場人物の島村と駒子だが、私はこの2人の立場を、どちらも経験したことがある。書いていてすでにばつが悪いが、まあ事実だから仕方がない。
本能の側から見れば、魅力的な異性の存在は、この世界に溢れている。……と明言すると、おそらく一定の層から叱られるから、ここで島村の皮を借りることにする。
”君のことを、本当にかわいいと思う。生きることに必死で、それがゆえにときどき素直じゃなくて、だけど呆れるほどに純粋で。俺のことなんかさっぱり忘れている瞬間もあるかと思えば、次には俺に没入している。生命力に溢れているのにどこかで何か、大切なもののことは諦めていて、それがすごく哀れで、でもだから、君を愛している。そして、自分自身も君のことも傷つけるから決して言えないけれど、君にとっては、だから、俺じゃない。俺にとっても、君じゃない。それでも、君を愛している。”
駒子に対する島村の思いは、ざっと端折ればこんなところだろうか。言葉にすると最低最悪の傲慢野郎だが、人はモラトリアムに陥ると、きっとそれ特有の魅力を放つのだ。こういう気持ちを他人に向けたことがあり、懺悔すると同時に私は己の狡さも露呈する。繰り返すが、相手を変えれば私はそっくりそのまま、駒子の側だったこともある。それぞれの側面が持つ黒さを内包しながら、しかし私が今日までぎりぎり踏み外さずにやってこられたのは、きっと圧倒的な自然に、都度都度救われてきたからだ。私ごときが作る小さな黒いシミなど、こんこんと降り頻る雪の白さに、あっという間にかき消されてしまうのだから。