書評と雑感 「変身」フランツ・カフカ

 書評と言いつつ、今回は自分の思い出話に終始する。時は2017年、私がフォトグラファーになるべく修行中の身であった頃まで巻き戻る。当時、日本で広告写真家になろうと思うと、そこには一応セオリーがあった(現在はほとんど崩壊しただろうが)。写真学校を出て、レンタルスタジオでアシスタントを経験したのち、師を1人定め弟子入りする。その人物の下で修行を重ね、数年後に独立する。図らずもその流れに乗った私は、この時点で24歳。「写真で飯を食って生きて行きたい」と漠然と願った15歳時分の夢を叶える目前だった。

 だがしかし、ここで私の天邪鬼が発動する。このまま独立すればほとんど約束された将来が待っている。しかし弟子入りをした時点で、私は次なる夢を密かに抱えていた。海外に住んでみたい。とにかく、ここではない、どこか遠くへ行きたいと切望する気持ちが日増しに膨らんでいったのだ。幸い、理解ある師匠と両親を持ったため、身近な人への説得には苦労しなかった。

 さて、あとは国選びだ。最初に思いついたのは、師匠が以前住んでいたからという安直な理由で、アメリカ・NY。しかし、雀の涙ほどの貯金を使い果たしたとして、夢の海外生活は1ヶ月で泡と散るだろう。物価があまりにも高すぎる。余談だが、米大統領がこの頃誰に就任したかを覚えている諸君なら、金銭的な理由を差し引いても、私の中のアメリカ熱がスッと引いていったことへも頷いてくれるだろう。こうして、自由の国は選択肢から消えた。

 そうすると、次はヨーロッパへ目が向く。(今となっては自分の愚かさに頭を抱えるが)ヨーロッパ、正直言って何がなんだか分からない。ロンドン、パリ、ベルリンあたりが有名どころで良さそうだが、いまいちピンと来ない。本末転倒だが、そうして悩み続けることに疲れてしまった私は、文字通り、自室でいったん休むことにした。

 本に対する偏愛の歴史は今度語ることにして、とにかく東京都内で一人暮らしをしていた当時、私は自宅のクローゼットをまるまる書庫としていた。今でもはっきりと覚えている。よく晴れた休日の昼下がり、その日も何か読みたいと思い、私はクローゼットの扉を開けた。そのうちここだけ床が抜け落ちるのではないかという量の本を前に、端から順番に背表紙を触り、何の気なしに一冊手に取る。フランツ・カフカの『変身』。はて、これはいつ買ったのだったか—と思ったが、まあいい。薄いし、今の私にはこのくらいがちょうど良い。この瞬間、まさしく自分の運命が決まったとも知らず、24歳の若造は呑気にそんなことを考えた。

 ベッドに寝そべり、手にした『変身』の頁を開く。世界で最も有名な衝撃の書き出しに触れ、読み終わるまで1時間もかからなかったかもしれない。時間など、溶けてしまった。

 彼は、天才だ。読了後、熱を持ちぼんやりとした頭で、第一にそう考えた。第二に、「この人が生まれた国に行こう」と思った。私の行き先が決まった瞬間だった。それがどこであろうと構わない。彼が生まれ育った場所に行き、私はそこで暮らすのだ。読み終えて閉じた本を再度開き、折り返しの中表紙に目をやる。「チェコ共和国プラハ出身」と、そこには記されている。……なるほど。……チェコ共和国って……、どこだ?

 —こんなに間抜けな人間がいるものかと、当時を思い返して笑みが溢れる。ともかくも文明の利器・インターネットに助けられ、チェコ共和国が中欧に位置していることがわかった。おまけに、在日チェコ大使館が私の住む区内にあることも分かった。ならば、目下の行き先はひとつである。上着のポケットに携帯と財布を入れ、自宅を出た私は自転車に飛び乗り、在日チェコ大使館に向かった。懸命な読者諸君は絶対に真似しないでいただきたいのだが、当時の私は大使館へ行けば何か情報が得られると考えたのだ。ちなみにここまでを書く間、私はすでに数回頭を抱えて項垂れている。愛すべき莫迦である。

 ともあれ、Google Mapをたびたび確認しつつ、片道20分ほどで目的地へ到着した。先ほど覚えた国旗が風に吹かれて揺られているから、間違いない。ここだ。自転車を停め、当然だが部外者は入館すら許されていないガラス戸の前をウロウロし(幸い通報されなかった)、どうにも入れないと見て、併設されている建物のドアを開けた。そこは結果的に、大使館が運営する文化施設だった。中に入ると、小柄な女性が書棚を整理しているところだった。私に気づいて振り返り、「あ、すみません。今イベントの会期休みで、何もやっていなくて…」と申し訳なさそうにする女性を制し、「チェコに行きたいんです。とりあえず一年くらい。どうしたらいいですか?」と尋ねた。—繰り返すが、懸命な読者諸君は絶対に真似しないでいただきたい(誰もしないと思うが)。

 突如自転車に乗って現れた不審者に対しても朗らかに接してくれる親切な女性は、何も当てがないのであれば留学するのがいいかもしれないと提案してくれた。加えて、現地の語学学校に関する幾つかの情報と、彼女自身のお勧めまで教えてくれた。ならばもう、そこへ行こう。そういうわけで、わずか数時間で、国を始めとする具体的な行き先まで決まってしまった。

 チェコ共和国・プラハでの目眩く暮らし(本当にその女性から教えてもらった学校に入学し、結局丸一年住んだ)については今後も折りに触れて語るとして、このエピソードをもって「なぜチェコ共和国に住むと決めたのか」と、冗談抜きで私が人から100万回受けた質問への回答とする。ある日突然カフカに魅せられて、私の人生は一変した。彼の作品を愛する者なら、しかしそのくらいは屁でもない力を秘めていると納得してくれるだろう。また、チェコを訪れたことのある人なら、あの国そのものが持つ不思議な魔力についても心得ているはずだ。

 もうひとつだけ、付随する話を添えておく。私が、「結局のところ人間は、自分の中にあるものしか表現できない」と真に悟った瞬間についてである。念願叶ってチェコ共和国に移り住んだ私は、まんまとチェコ語へ、それから散歩に執心した。首からカメラをぶら下げて、どこまでも歩き続けていた、なんでもない一日の、なんでもない場所での、ある瞬間だった。おそらくその日もカフカを想い、彼の作品を想い、ひいてはありとあらゆる「作品」ならびに「作家」と呼ばれる人種について考えていた。

 それまでの私は、文章その他の「芸」一般は、鍛錬と技巧から成るのだと信じて疑わなかった。もちろんそれらは、核を担う要素に他ならない。しかし、自分が立てた根本の仮説が大きく間違っていたことに気がついたのだ。カフカの作品は、彼の静かなる魂の叫びだった。そうでなければ、この若造の人生そのものをひっくり返すほどの影響力を持つわけがない。カフカにとって『変身』は、きっと、彼が見た景色、世界そのものだったのだ。

 ほとんど瞑想状態で、名もなき歩道の端でその教訓を得た私は、青空の下で皮肉に笑った。そして、私にできるのはこれだけだと言わんばかりに、視界に広がる風景にレンズを向け、迷わずシャッターを切ったのだった。

書評と雑感「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

 村上春樹の作品に初めて夢中になったのは、高校生の頃だ。同じ頃、言わずと知れたASIAN KUNG-FU GENERATIONにも夢中だった。中学生の頃に洋楽のロックバンドを好んで聴き、高校に上がる頃には邦楽のロックバンドに肩入れした。ふつうは順序が逆なのかもしれないと、今これを書いていて思う。しかしとにかく、アジカンは、私の青春時代の礎を築いた。彼らへの愛を語るのはまた別の機会にする。またその頃、学校帰りに自転車で高校からすぐの図書館へ通うのが常だった私は、ある日国内文学の棚を前に、「おっ」と思った。彼らの曲名と同じ作品が、そこに並んでいたからだ。

 「アフターダーク」を契機として次々に春樹を読んだ高校時代を終え、すっかり大人になり、久々にこの本を読むことになった経緯は至って単純だ。Kindle Storeの波を泳いでいたらサジェストされてきたのだったと思う。—あ、村上春樹だ。今回はタイトルが長いな。それが最初の感想だ。気がつくと購入していた。2021年2月9日に読了したが、さらりと再読しても、初めて読了したときの感覚が未だ鮮明に残っており、また新たに感じたこともあるから、ここに残しておく。

 最初に読んで、自分がはっきりと気がついたことがある。この世の中は、自分の苦悩を表明することにすら、暗黙の許可が必要なのだ。…あまりにも説明が必要だから、いったん冒頭に近い部分を引用する。

偶然というべきか、五人はみんな大都市郊外「中の上」クラスの家庭の子供たちだった。

 大変くだけた言い方をすれば、本作の主要な登場人物5名は皆、「いいとこのボンボン」なのである。一定数存在する彼らのような存在は、おおよそ育ちがよく、傍目には順風満帆な人生を送る。何の問題もなく良い大学に入り、さして苦労することなくそのまま大企業へ入社し、良きところで結婚して子供を授かり、マイホームを購入して暮らす。生まれたときから死ぬまでずっと、そんな安定した人生を穏やかに過ごす。それが、世間が彼らに向けるステレオタイプな視線だろう。私もぼうっとしていたら、何の疑問も持たずにそういうフィルターをかけて彼らのことを見てしまうかもしれない。きっとこの人たちには、悩みとかないんだろうな、と。

 だから私はこの本を読み、反省したのだ。人間である以上、多かれ少なかれ皆ひとしく、それぞれの段階や置かれた立場なりの苦労を抱えているに決まっている。当然だ。主人公・多崎つくるにしたってそうだ。彼の希死念慮から始まる本作の中で、彼は基本的にずっと苦しんでいる。仲の良い友人たちのグループからある日突然カットアウトされたことはもちろんだけれど、そのほかの大きな理由のひとつには、「彼は苦労なんてしていない」というパッケージに、多崎つくる自身が知らずの内に収められてしまったことが挙げられるのではないか、と思う。もっと言えば、そのパッケージには、「彼は苦労など感じてはいけない種類の人間だ」という、鋭さには欠けるが重くて暗い、外側からの嫉妬が内包されている。

 なにしろ人は、往々にして単純明快なドラマを愛する。それはときに思考停止とも取れるものだが、起承転結のはっきりした分かりやすい物語は、たしかに安心して見ていることができる。そしてその「ドラマ」は、ある観点において、大きく二つに分けられる。凋落する大富豪と、成り上がった貧乏人の2種類だ。いずれの立場も、大きな成功を収めた地点では聴衆からの嫉妬を買うだろう。しかし、前後のストーリーが哀れみや共感として作用して、結果的に彼らは愛されるのだ。

 一方で、その中庸の立場—多崎つくるのような—の苦しみや悲しみは、一般には理解され難いだろう。たとえ、それがときに本人の命を脅かすほどの深刻さを孕んでいたとしても、その苦悩は簡単に人には打ち明けられない。話したとして、「あなたのような恵まれた立場の人間が何を言っているの」と一蹴されるのが関の山だ。そうして本人にかけられた呪いは、次第に色濃くなっていく。この種類の鼠小路にはまり、静かに迎える死が実在する可能性を考えて、私は素直に悲しくなった。ここに読了した記録として私が残すことにした最大の決め手は、だから、自戒である。どんな人の苦しみや悲しみも否定せず、まずありのままを受け止める。そうしてそれで弄んだり、それを奪ったりしない。完璧にやり抜くことは難しいけれど、少なくとも意識に刻みつけて生きていきたい。

 と、ここまでが、初回を読み終えての読了感だった。今回再読にあたり、大きくその感覚は変わっていないけれど、新たにいいなと思った一節がある。

二重の意味で一人であることは、あるいは孤立の二重否定につながるのかもしれない。

 後半で、多崎つくるがフィンランドを訪れた際、ひとりで夕食を摂ったレストランでの場面で彼が感じたことである。さて、これには膝を打った。なぜならこれは、私が以前チェコ共和国に住み、向こうで暮らしていた頃の感覚そのものだからだ。

 どう考えても典型的な東洋人の見た目で、おまけに習性としてカメラを首からぶら下げている私は、どれだけチェコ語が上達しても(もちろん素人に毛が生えた程度であるが)、地元の人々にとり、単なる観光客としか見えていなかっただろう。もっとも、チェコ語を話して住人であることが分かると、相手は途端に申し訳なさを含んだ歓迎へと態度を変える。その瞬間は、純然たる喜びだ。しかし人々が私に抱く第一印象を、心から嫌だと思ったことは一度もない。なぜならある種の(私のような)人間は、その特異な「ひとり」の状態を求めて、敢えて見知らぬ土地を選んでそこへ旅立つのだから。よってこの感覚が、多崎つくるにとって何らかの救済であったことを願う。

書評と雑感 「雪国」川端康成

 新潟県の、それも雪深い地方で生まれ育った身として、この本を読むことは義務のような心持ちだった。しかし、18歳の少女は挫折した。あまりに難解で、とっつきづらいと感じ、それきり手に取ることもなかった。それから10年以上の時を経て、縁あってこの本の舞台そのものである越後湯沢で、大人になった私は真冬を含む8ヶ月間を過ごすことになる。時は2024年の1月4日。元旦に起きた大地震の傷は癒えるはずもなく、余震に怯えて外出することもままならなかった。今読まずしていつ読むのだと、そう心を決めて頁を開く。驚いたことに、今度はものの3時間で読み終えてしまった。そして、読んでいる間じゅう、私は自分が出せる限りの低い声で唸り続けた。あまりにも、あまりにも巧みな川端の文章に、鳩尾を軽く殴られ続けている感覚を覚えたからだ。

 冒頭の有名な一文およびあらすじについては、情報の海に溢れかえっているから割愛する。個人的な視点よりまず特筆したいのは、会話文の生々しさである。

”「なにを勘定してるんだ」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。

「五月の二十三日ね」

「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ」

「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ」

「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね」

「日記を見れば、すぐ分るわ」

「日記?日記をつけてるの?」

「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かしいわ」

「いつから」”

 しかし、時を置いて読んでも、未だに唸り声が出る。意識して読めば、同じ疑問文でも文末に疑問符を打つときと打たないときとがあることに気がつく。この完璧な均衡が、まるで脈拍まで聞こえてきそうな温度を作るのだ。また、作品内での会話文というのは、得てして少々文学的な話し方に寄りがちだ(そしてそれが、とっつきづらさを生むものだ)。しかし、この2人の会話はまるで、今まさしく立ち聞きしてしまったのだと錯覚するほどに鮮やかなのだ。こんなことがあっていいのかと思う、本当に。この引用部分だけではない。作品全編をとおして川端は、人間の心、感情の襞ひとつひとつに積もった細胞をグロテスクなまでに掬い上げ、それを圧倒的な情景描写でひとつひとつ相殺していく。まったく、末恐ろしくて乾いた笑いが出る。

 多くの人の胸を打つ作品だから、読者各々に思い入れがあるだろう。とはいえ、私がひとしおの感動を本作に抱いた理由に想定されることのひとつに、私もまた、雪深い地域で育った事実が挙げられる。新潟県上越市は、私が8歳から18歳、そして27歳から30歳までの計13年間を過ごした土地だ。板倉区大字久々野の柄山集落では、昭和2年(1927年)2月13日に積雪が8メートル18センチに達し、人里での積雪の世界記録を樹立した。さすがにこれは大袈裟な例だが、しかし我々にとり、雪はもはや、生活の一部時として大半だ。

 冬、早朝には雪を退けるために各地域へブルドーザーが出動する。それでも足りないから、人々の朝は雪かきに始まり、夜は雪かきに終わる。屋根に積もった雪の重みで部屋の扉が開かなくなって青ざめる。車の運転中、正面からの吹雪に視界がホワイトアウトし、死を覚悟する。凍らせたい食材があれば、冷凍庫ではなく家の外に置いておく。冷蔵庫も使わない。自宅の廊下で充分代用できるからだ。冗談だと思ったら、身近な雪国出身の人間に事実確認をしてみるといい。真顔で同意し、ほかの数多のエピソードを語ってくれるはずだ。

 腹が立つのは、そこまで苦しめられても、未だ途方もなく雪が美しいと感じるからだろう。或る雪の日の夜、人っこひとりいない道を歩くと、世界から音が消えたことに気がつく。厳密には、雪の降る音だけが、私の身体を包んでいた。ふと自分が纏っている黒いコートの袖を見ると、絵に描いたような雪の結晶を細部まで見ることができる。芯まで冷えて感覚を失いつつある手足に、しかしなにか、たとえ命をこのまま終えたとしても、それでいいのかもしれないという納得感を覚えた。どう足掻いても大いなる自然には敵わないと、矮小な人間が悟った瞬間だ。

 さて、川端になぞらえて自然との対立構造を生むならば、愚かな人間としてこれは吐露しておかねばならない。主な登場人物の島村と駒子だが、私はこの2人の立場を、どちらも経験したことがある。書いていてすでにばつが悪いが、まあ事実だから仕方がない。

 本能の側から見れば、魅力的な異性の存在は、この世界に溢れている。……と明言すると、おそらく一定の層から叱られるから、ここで島村の皮を借りることにする。

 ”君のことを、本当にかわいいと思う。生きることに必死で、それがゆえにときどき素直じゃなくて、だけど呆れるほどに純粋で。俺のことなんかさっぱり忘れている瞬間もあるかと思えば、次には俺に没入している。生命力に溢れているのにどこかで何か、大切なもののことは諦めていて、それがすごく哀れで、でもだから、君を愛している。そして、自分自身も君のことも傷つけるから決して言えないけれど、君にとっては、だから、俺じゃない。俺にとっても、君じゃない。それでも、君を愛している。”

 駒子に対する島村の思いは、ざっと端折ればこんなところだろうか。言葉にすると最低最悪の傲慢野郎だが、人はモラトリアムに陥ると、きっとそれ特有の魅力を放つのだ。こういう気持ちを他人に向けたことがあり、懺悔すると同時に私は己の狡さも露呈する。繰り返すが、相手を変えれば私はそっくりそのまま、駒子の側だったこともある。それぞれの側面が持つ黒さを内包しながら、しかし私が今日までぎりぎり踏み外さずにやってこられたのは、きっと圧倒的な自然に、都度都度救われてきたからだ。私ごときが作る小さな黒いシミなど、こんこんと降り頻る雪の白さに、あっという間にかき消されてしまうのだから。