2024年10月、Twitter(X)のタイムラインが、ハン・ガンの名前で埋まった。2024年のノーベル文学賞を授与されたのは、韓国の女性作家だった。アジア人女性としても初めての受賞者だという。日本語で書かれた純文学、ならびに著名な外国人作家には些か明るいつもりでいたが、韓国文学はノーマークだった自分の浅薄さを恥じる。ニュースサイトの画面をスクロールする指は、そのままChromeの新しいウィンドウを開いてAmazonへ飛び、差し当たり「すべての、白いものたちの」をすぐさま購入した。
この本を読んだ時、ちょうど韓国人の女性と一緒に働いていた。経理の彼女の二つ隣の席に座っていた総務の私は、ノーベル文学賞を韓国人の女性が受賞しましたね、と話しかける。ハン・ガンでしょう。知っているけれど、本を読むのが苦手だから興味がないの、と宣う彼女の、あまりに流暢な日本語と、照れ隠しを孕んだぶっきらぼうな話し方と同じくらい、私は彼女の澄んだ声が好きだった。だから今でもこの本を読むと、彼女の声で再生される。自分の母語は軽やかに歌うように話す、彼女の声で。
白、白、白。その色から連想されるものは、人により様々だろう。個人的には真っ先に雪が想起されるから、あまりにも出自に紐づいているが、こればかりは許してほしい。
”両手に刷毛とペンキの缶を持ったまま腰をかがめて、何百枚もの羽毛をまき散らしたようにゆっくりと沈んでくる雪片の一つひとつを、その動きを、私はぼんやりと見守っていた。”
そう、本当に、重みを含んで降り頻る雪を前に、人は成す術がないのである。そもそも「白」という色を最初に名付けた人間は、雪を眺めながら取り決めたのではないかとすら思う。
雪でなければ、何があるだろう。紙。米。卵。羽根。雲。光—次第に抽象的になってきた。写真を撮る人間にとり、やはり光は白い。それから、魂。魂も光に含まれる。そしてやはり、作中に出てくる短篇ごとの題と私が挙げたものものは、ほとんど重複している。そういえば、宗教にもよるが、日本で人が亡くなると殆どの場合、亡骸に白い死装束を着せる。だから白は、私にとっては手の届かない、畏怖の念を抱くほどに絶対不可侵の、神秘的な色だ。この本は結果的に、白に怯える私と実際の白の間を、ちょうど取り持ってくれた。怖くても大丈夫と言わんばかりに。
どこかの誰かが素晴らしいことを成し遂げたとき、その性別に着目し、特に自分と同性であることを取り上げて賞賛するようなとき、胸の奥がちくりと痛む。性別や国籍などあらゆる要素を乗り越えた上でこの人物は素晴らしいと力の限り叫びたい瞬間は、生きていて数えきれないほどある。それでいて、語り手の主語が大きければ大きいほど、飛んでくる槍が増える。そんな現代にあって、何事をもジェンダーで分けるべきではないことを知って尚、私は問いたい。知りたい、と言った方がいいかもしれない。果たして男性諸君は、彼女の本を読んで何を得、考え、そして感じたのか。
”あなたの目で眺めると、違って見えた。あなたの体で歩くと、私の歩みは別物になった。私はあなたにきれいなものを見せてあげたかった。残酷さ、悲しみ、絶望、汚れ、苦痛よりも先に、あなたにだけはきれいなものを。でも思うようにいかなかった。”
—自分が泣いていることに、しばらく気がつかなかった。本を読んでいて、時折そういう状態に陥ることがある。涙の熱さに驚いて我に返り、鼻水を拭って思う。この場合、私が泣くのは、私が女性だからだろうか。東アジア人だからだろうか。日本の、雪国で生まれ育ったからだろうか。母親の娘だからだろうか。母親になることのできる身体を、持って生まれてきたからだろうか。みんな、この本を読んだ人はみんな、こうなるのだろうか。取り留めの無い仮説が浮かんでは消える。
何年も前に、尊敬する男性から、「あなたは綺麗に泣くから腹が立つ」と言われたことがあり、それを不意に思い出した。その言葉の意味するところがてんで理解できず、当時は却って笑ったものだったが、綺麗というより、私は恐らく、静かに泣くのだ。拭うのが面倒なうえ目が腫れるのが厭で、基本的には滴る涙をそのままにしておく。言葉にできないから泣いているのであって、何かを同時に叫んだりすることもない。大人しいものである。そもそも能動的にやっているものでもないが、私にとって、泣くという行為は、怒りや悲しみによってのみ発生するのではない。感情の枡が満ちて溢れた分が、涙になって表出されるものだと思っている。
…ああ、そうか。だからこれが答え合わせである。この本を読み進めるうち、いつしか私の心は、名前のつけられない感情でいっぱいになり、溢れてしまった。無論、小説家の表現力と翻訳者の手腕が光り輝いていることは根底にあるのだが、もはやそれを持ち出すのは野暮とまで言えよう。こういう作品に出会うことがあるから、どれほど絶望することがあっても、今のところ私は、自分の人生を自分の手で終わらせることなく過ごせている。