書評と雑感「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

 村上春樹の作品に初めて夢中になったのは、高校生の頃だ。同じ頃、言わずと知れたASIAN KUNG-FU GENERATIONにも夢中だった。中学生の頃に洋楽のロックバンドを好んで聴き、高校に上がる頃には邦楽のロックバンドに肩入れした。ふつうは順序が逆なのかもしれないと、今これを書いていて思う。しかしとにかく、アジカンは、私の青春時代の礎を築いた。彼らへの愛を語るのはまた別の機会にする。またその頃、学校帰りに自転車で高校からすぐの図書館へ通うのが常だった私は、ある日国内文学の棚を前に、「おっ」と思った。彼らの曲名と同じ作品が、そこに並んでいたからだ。

 「アフターダーク」を契機として次々に春樹を読んだ高校時代を終え、すっかり大人になり、久々にこの本を読むことになった経緯は至って単純だ。Kindle Storeの波を泳いでいたらサジェストされてきたのだったと思う。—あ、村上春樹だ。今回はタイトルが長いな。それが最初の感想だ。気がつくと購入していた。2021年2月9日に読了したが、さらりと再読しても、初めて読了したときの感覚が未だ鮮明に残っており、また新たに感じたこともあるから、ここに残しておく。

 最初に読んで、自分がはっきりと気がついたことがある。この世の中は、自分の苦悩を表明することにすら、暗黙の許可が必要なのだ。…あまりにも説明が必要だから、いったん冒頭に近い部分を引用する。

偶然というべきか、五人はみんな大都市郊外「中の上」クラスの家庭の子供たちだった。

 大変くだけた言い方をすれば、本作の主要な登場人物5名は皆、「いいとこのボンボン」なのである。一定数存在する彼らのような存在は、おおよそ育ちがよく、傍目には順風満帆な人生を送る。何の問題もなく良い大学に入り、さして苦労することなくそのまま大企業へ入社し、良きところで結婚して子供を授かり、マイホームを購入して暮らす。生まれたときから死ぬまでずっと、そんな安定した人生を穏やかに過ごす。それが、世間が彼らに向けるステレオタイプな視線だろう。私もぼうっとしていたら、何の疑問も持たずにそういうフィルターをかけて彼らのことを見てしまうかもしれない。きっとこの人たちには、悩みとかないんだろうな、と。

 だから私はこの本を読み、反省したのだ。人間である以上、多かれ少なかれ皆ひとしく、それぞれの段階や置かれた立場なりの苦労を抱えているに決まっている。当然だ。主人公・多崎つくるにしたってそうだ。彼の希死念慮から始まる本作の中で、彼は基本的にずっと苦しんでいる。仲の良い友人たちのグループからある日突然カットアウトされたことはもちろんだけれど、そのほかの大きな理由のひとつには、「彼は苦労なんてしていない」というパッケージに、多崎つくる自身が知らずの内に収められてしまったことが挙げられるのではないか、と思う。もっと言えば、そのパッケージには、「彼は苦労など感じてはいけない種類の人間だ」という、鋭さには欠けるが重くて暗い、外側からの嫉妬が内包されている。

 なにしろ人は、往々にして単純明快なドラマを愛する。それはときに思考停止とも取れるものだが、起承転結のはっきりした分かりやすい物語は、たしかに安心して見ていることができる。そしてその「ドラマ」は、ある観点において、大きく二つに分けられる。凋落する大富豪と、成り上がった貧乏人の2種類だ。いずれの立場も、大きな成功を収めた地点では聴衆からの嫉妬を買うだろう。しかし、前後のストーリーが哀れみや共感として作用して、結果的に彼らは愛されるのだ。

 一方で、その中庸の立場—多崎つくるのような—の苦しみや悲しみは、一般には理解され難いだろう。たとえ、それがときに本人の命を脅かすほどの深刻さを孕んでいたとしても、その苦悩は簡単に人には打ち明けられない。話したとして、「あなたのような恵まれた立場の人間が何を言っているの」と一蹴されるのが関の山だ。そうして本人にかけられた呪いは、次第に色濃くなっていく。この種類の鼠小路にはまり、静かに迎える死が実在する可能性を考えて、私は素直に悲しくなった。ここに読了した記録として私が残すことにした最大の決め手は、だから、自戒である。どんな人の苦しみや悲しみも否定せず、まずありのままを受け止める。そうしてそれで弄んだり、それを奪ったりしない。完璧にやり抜くことは難しいけれど、少なくとも意識に刻みつけて生きていきたい。

 と、ここまでが、初回を読み終えての読了感だった。今回再読にあたり、大きくその感覚は変わっていないけれど、新たにいいなと思った一節がある。

二重の意味で一人であることは、あるいは孤立の二重否定につながるのかもしれない。

 後半で、多崎つくるがフィンランドを訪れた際、ひとりで夕食を摂ったレストランでの場面で彼が感じたことである。さて、これには膝を打った。なぜならこれは、私が以前チェコ共和国に住み、向こうで暮らしていた頃の感覚そのものだからだ。

 どう考えても典型的な東洋人の見た目で、おまけに習性としてカメラを首からぶら下げている私は、どれだけチェコ語が上達しても(もちろん素人に毛が生えた程度であるが)、地元の人々にとり、単なる観光客としか見えていなかっただろう。もっとも、チェコ語を話して住人であることが分かると、相手は途端に申し訳なさを含んだ歓迎へと態度を変える。その瞬間は、純然たる喜びだ。しかし人々が私に抱く第一印象を、心から嫌だと思ったことは一度もない。なぜならある種の(私のような)人間は、その特異な「ひとり」の状態を求めて、敢えて見知らぬ土地を選んでそこへ旅立つのだから。よってこの感覚が、多崎つくるにとって何らかの救済であったことを願う。