
1年間住んでいたことがあるという誼み—欲目とも言う—から、私はチェコ共和国、ならびにその国の出身者に甘い。それは自覚している。然しながら、この一日本人の小さな私情など抜きにしても、ミラン・クンデラは卓越している。というのも、名著と呼ばれる作品の(すべてではないが)多くは往々にして、あまりに退屈な前半を乗り越えたご褒美として後半の興奮を得られるものだ。ところがクンデラは、本書は、まずそこで一線を画す。冒頭から早くも面白い。そして、ずっと面白い。それは折に触れて哲学書を引用したり、史実についての主張を差し挟んだりすることにも依拠しているのだろうが、とはいえ散りばめ方が絶妙だ。この技巧に、まずは唸る。
その後、瞬く間に引き込まれた本編では、まずもって隠しきれない悲愴感がそこかしこに漂っていることに気づく。その悲しみは、そして、浮き沈みを繰り返しながら終わりまで、否、読了後もつづく。むろん、単なる悲しみだけではなく、時としてそれは、優しさや諦めをも孕んでいる。だからつくづく洒落ているのだが、鼻につくかと思えばそんなことはない。なぜなら人は、ただしく悲しみの上に浮かんでいると、熱くなるのが極めて難しいからだ。そして、この手の悲しみを知らない人間と、本質的に親しくなることは難しいと私は考える。
さて、登場人物たちについて。これもまた良い作品の特徴であると言えるが、全員が魅力的だ。そして(魅力的だと断言したあとにこう述べるのも野暮だが)、全員それぞれに、どこか自分自身と重ねてしまうところがある。というか、小説とは本来、そういうものなのではなかろうか。特定の人物にフォーカスして描写する際、それが創作であればなおのこと、書き手は少なからず対象に自己投影しているのではなかろうか。—という仮説を序盤から立てていたところ、作者があっさりとそれを認めたので膝を打つ。
”「私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。」”
とりわけ、私が個人的に最も肩入れしたのはサビナであった。その最も大きな理由は、私もまた人生の中で「裏切り」を繰り返してきたからだ。だから、サビナがテレザに憧れ、純粋に嫉妬する気持ちがよく分かる。自分もこんなふうに、感情の赴くままに生きられたらどんなにかいいだろうと思うのだ。本当に思う。それでも、そんな勇気はない。だから自分は道化に逃げる。隕石のような愛を誰かにぶつける勇気を持たないものは、それを受け止めるに値しないことを知っているから。
さらには人生において住居の変更が増えると、その回数分だけ自我も揺らぐ。揺らいだ自我を求める先は、周囲の環境に依らないぶん、自分の内側に向いていく。そうして、或る日、その「存在の耐えられない軽さ」に打ちのめされる。しかし見ないふりをしていただけで、私の存在などは元々たしかに取るに足らない。人は「重み」を、さも芳しくないことのように語ることが多いが、きっとそれは傲慢だ。その重みが魂を地上に留めている場面のほうが、ともすれば多いかもしれないのに。
とはいえ、やはり次第に増していく重みは、基本的に耐えがたい。たとえば、現状の速度で世の中が進化(ここでは敢えてそう言おう)し続けると、「死」という概念は、いずれなくなるかもしれない。そんなありきたりなことを考えたとき、私を待っていたのは、真っ先に絶望だった。なぜって、今なにか、取るに足らなくとも生きながらえているのは、いつか必ず死ぬと分かっているからだ。この物語には、必ず終わりが訪れると知っているからだ。掛け値なしの本音でそう思うのだから、人生の尊さはその儚さ、言い換えれば軽さにある。
クンデラの技巧に准えて言えば、本書は表題の通り、このように読みながら身体感覚として自分の身体が重くなったり軽くなったりするのを感じられる。この手の体験は読書でしか得られないと知るとき、それは悦びに変わる。

ところで、プラハに住んでいた頃、物語の中盤に登場するペトシーンの丘へひとりで登ったことがある。写真に日付が残っていた。2019年7月1日、月曜日。平日とはいえよく晴れた散歩日和、観光も兼ねてケーブルカーに乗り、ちんたら上まで向かう。着いて、降りて、驚いた。呆れるほどに美しくて、文字通り誰もいない。ひとりも、である。この後そういう場面に頻繁に出くわすようになり慣れるのだが、チェコは本当にそういう場所が多い。大きい美術館を訪れても、教会を訪れても、誰もいないのだ。美しさと歴史が作る静けさの中にひとり佇むと、耳鳴りがする。この世界には自分しか存在しないのではないかと錯覚し、不安になり、それが何とも心地良い。心と身体が軽くなる。比較対象が日本だから、なおさらそう感じるのかもしれない。なぜなら、日本の歴史的で美しい場所には、例外なく人が詰めかけるからだ。これは決して自慢ではない。すべてを台無しにする喧騒に、自分も加担しておきながら数えきれないほどうんざりしてきた。
私がチェコに住んだのは2019年から2020年にかけての1年間だから、街も人々も素朴で穏やかな印象を受けた。だが、それは激動の時代を乗り越えたからこその安息だ。
”「そう、幸福とは繰り返しへの憧れであると、テレザは独りごとをいう。」”
クンデラも多分に漏れず、浮き沈みの激しい生涯を送ったことは想像に難くない。彼の文体がそれを如実に顕し、独特の色気を放っている。そもそも表題が「存在の耐えられない軽さ」とは、言葉を失う。そんなのはずるい、と言ってやりたくもなるが、作者は亡くなった。我々人類は、本当に惜しい人を亡くしたのだ。冥福を祈ろう。